「わたしは時折、直接的な非二元のアプローチを通して苦しみから解放されようとする人たちと出会うことがあるが、彼らはいつもマインドの中で行き詰まっているように見受けられる。彼ら自身の感情や気持ちに彼らを実際に再びつなげることができる実践的な師と、一、二年は取り組んで過ごす方が懸命ではないかと思えるときがある。感情から解放されるには、ときには、強烈な感情を実際に表現するカタルシスは必要だ。」ジム・ドリーヴァー
以前からホームページやブログの中で感情、特に怒りや悲しみなどの否定的な感情に気づき、それらを解放することの大切さについて書いてきました。でも、それほど否定的なエネルギーにばかり焦点を当てなくてもいいのではないか、と考えていた時期もあるのです。
スピリチュアルな考え方の中には、意識を向けるものが実現される、というような考え方もありますから、否定的なものばかりに意識を向けるということは、そのエネルギーをさらに大きくしてしまう、と考えられなくもないでしょう。
もう10年近く前になりますが、ある方と話をしていて、次のようなことを言われたことがあるのを思い出しました。(正確な言葉は覚えていないので、細かい表現は違うかもしれません)
「中野さんのセラピーは怒りや悲しみなどに焦点を当て過ぎている。もっと光の部分だけに意識を向けるようにしたほうがいい。」
そう言われて、一時は「そうかもしれないな。セラピーの方向性を考え直したほうがいいのだろうか」と悩みました。でも今はそんなふうには思っていません。抑圧している怒りや悲しみに意識を向けていくことは、目覚めのプロセスの中ではとても大切なステップなのです。
私のセラピーはいわゆる「非二元的な考え方」にもとづいています。非二元的な考え方というのは、例えば、「すべては一つ」「すべてのことは自然に起こっている」「行為はあっても行為する人はいない」といったような表現で表されるものの見方です。
このような視点で世界を見ることができるようになったとき、本当の意味での癒し=全体とつながる感覚を感じることができ、生きることの苦しみから解放されます。この視点を獲得するまでは「ありのまま」という言葉の本当の意味も理解できません。
しかし、この非二元的な考え方を知的に受け入れ、さらにはある程度直感的に理解している人であっても、その感覚に安定していることは難しいようです。
一つには、自分が行為者であるという感覚、いわゆる「エゴ」の感覚はあまりにも深く根付いているので、本当はそうではない(行為する人は存在せず、行為が起こっているだけ)ということを直接的な体験として経験したあとでも、古い認識パターンに引き戻される、ということがどうしても起こるのです。
もう一つの要因は、目覚めの体験を、本当の自分を避けるために使ってしまうということです。
多くの人は子供時代に心の痛みを体験し、それに触れることを避けるために心と身体を緊張させています。
本当はその緊張感こそが周囲の世界から切り離された「自分」という感覚そのものなので、その痛みを十分に体験し、癒していくことで、自分が行為者であるという感覚、自分=エゴであるという思い込みから抜け出していくことができるのに、その痛みに触れるときに感じる一時的な苦しみを避けるために目覚めの体験を利用する、ということが起こるのです。「自分は目覚めの体験をして真実を知ったので、もう何も問題はないのだ」というように。
しかし、実際に起こっていることは、「自分は目覚めている」という考えに執着しているだけで、やがて自分が考えている目覚めの定義に反するような感情を体験したり、行為をしたりしている自分に気づいて、がっかりしてしまいます。
自分は目覚めているという考えを信じ込むことで、まだ未解決になっている感情的な問題を避けようとしてしまうわけです。「自分は目覚めている」というのもやってきては去っていく一つの思考にすぎないのに。
この段階では、アジャシャンティが「根本的な正直さ」と表現しているものがとても大切になります。自分の心の奥にあるすべての感情、すべての要素を、正直に、ありのままに認めていくことが必要なのです。
実際には「否定的な感情」などというものは存在していません。ただ一つのエネルギーの動きがあるだけです。問題は、ある感情はよい感情、ある感情はよくない感情と判断することそれ自体にあるのです。
自分の感情を抑圧しているということは、ある感情をよくない感情だと判断しているということです。セラピーの中で、怒りや悲しみにばかり焦点を当てているように見えるのは、多くの人にとっては、まず閉じ込めてしまっている怒りや悲しみに意識の光を当てていく必要があるからなのです。
光を当てていく、というのは、よい悪いという判断をせずに、ただ感情のエネルギーを感じ取っていく、ということです。
ところが、あまりにも抑圧が強い方にとっては、ただ感じるということはとても難しく、どういう感覚なのかがなかなかわからないことがあります。そういう方にとっては、泣いたり大きな声を出したり、というような激しい形の感情の解放(カタルシス)は、目覚めが深まっていくステップの一つとしてどうしても必要です。
ただし、このカタルシスの体験はとても気持ちがいいので、その体験に執着してしまう、ということも起こりがちです。
ある程度のカタルシスを体験したあとは、感情を外に吐き出すのではなくて、自分の内側でエネルギーそのものとして感じ取る、ということが必要になる時期がやってきます。
あらゆる感情を感じるままに、起こっているままに感じることが出来るようになってきたとき、感情そのもの(意識の対象物)から、それを感じている私(主体)へと意識の焦点が移ってきます。
感情が生まれてきては消えていくのを見ている私、思考が生まれてきては消えていくのを見ている私、その私を意識できるようになってきたとき、個別の私という感覚は自然と緩んできます。
私という視点が緩んできたときに初めて、よい悪いを超えて世界をありのままに見ることができるようになってくるのです。
怒りも悲しみも光の一部であることがわかります。
非二元、ワンネスという言葉の意味が理解されます。
理解する人は存在せず、理解だけがあります。
大いなるものが、大いなるものを自身を理解します。
ただ、それ、だけが存在しています。
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