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心の癒しと意識の目覚めのために

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ありのままの私

前回の「私」とは誰かの実験を試してみましたか?どんな感じがしたでしょうか。

私たちは普段、感覚の対象にばかり意識を向けていて、その感覚を感じている主体、つまり感覚を感じている「自分」のほうを意識することはほとんどありません。

そう言われると、「自分のことはよく考えるよ」とおっしゃる方もいるかもしれませんね。でも、それは、自分についていろいろと考えている、つまり自分に関してよいとか悪いとかの判断をしている、ということであることがほとんどです。

考えを通さずに、価値判断をせずに、自分をただ意識することができるでしょうか?これは、より深い自分に気づいていくための、とても大切なポイントです。

ほとんどの人は、自分の考えを自分自身だと思い込んでいますが、実はその「考え」も意識の主体ではなくて対象の一つなのです。つまり、考え=自分ではなくて、考えも自分が気づいているものの一つだ、ということです。

自分と外の世界を隔てているように見えているこの皮膚の外側で起こっているさまざまな出来事(車の音、窓から差し込む光、さわやかな風、、、)と同じように、この皮膚の内側で起こっている出来事(頭の中を流れていく言葉=思考、喜びや怒りのような感情、身体の中をうごめいているさまざまな微妙な感覚、、、)を意識することができるでしょうか。

外を走る車の音や雨の降る音は、あなたがコントロールすることの出来ない宇宙の自然な出来事の一部です。そして、あなたの心の中で起こる思考や感情もあなたがコントロールすることはできない宇宙の自然な出来事の一つだとしたら、どんな感じがするでしょうか。

あなたは、あなたの外で起こっていることも、内側で起こっていることも、ただありのまま眺めています。「ありのままでいい」というような言い方で使われる「ありのまま」という言葉のもっとも深い意味を感じてみて下さい。

さて、前回の「私」とは誰かの実験の最後の部分に

すべてに気づいているあなた。それが本当のあなたへたどりつくための最後のドアです。

と書きました。すべてに気づいている自分が本当の自分ではないのですか?というご質問をいただきましたので、次回はこのことについて書いてみましょう。


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[ 2010/07/01 09:13 ] 気づき(〜2012/12) | TB(-) | CM(-)

本当の自分~ワンネス

外の世界で起こっていること(雨が降ったり、風がふいたり)と、心の中で起こっていること(考えや感情が流れていくこと)を同じ宇宙の自然な出来事だと見ることができるようになってくると、ありのままでいいのだ、という言葉の本当の意味がわかってきます。

「こんな自分ではだめだ」というような否定的な考えが頭の中を流れても、それはただ雨が降るのと同じように宇宙の自然の一部であって、雨はそのうちやむだろうと思えます。

激しい怒りの感情がこみ上げてきたとしても、それは風がふくのと同じように宇宙の自然の一部であって、風もそのうちおさまるだろうと思えます。

そんなふうに「すべてをただ見ている自分」のことを「目撃者」という言葉で表現することもあります。

では「目撃者」が本当の自分なのでしょうか?どうもそうではないようです。

自分の外側で起こっていることも、自分の内側で起こっていることも、すべてのことをありのまま見ている自分、目撃者の視点を保ち、そこに意識的にとどまっていると、見ている自分と見られているいろんなもの(山や川や雨や風や車やパソコンや思考や感情、、、)との境界が薄れてくる感覚がしてきます。

見ている自分がいて、見られている何かがあるわけではなく、その二つが実は同じものなのだ、という感覚がしてくるのです。あなたが山を見ているのではなくて、あなたが山なのです。

「すべては一つ」「ワンネス」という言葉もあります。

「あなたが世界だ」という言い方もありますね。

つまり、すべてを見ている自分、目撃者が本当の自分なのではなくて、「すべてが自分」なのです。

なんだかよくわからなくなってきましたか?

ここに書かれている言葉が論理的に理解できなくても大丈夫です。頭でわかってもわからなくても、あなたはすでに「ありのまま」「それ」なのですから、本当は何も心配いらないのです(心配してもいいのですが)。この文章を読んで自分の内側で感じている感覚をよく味わってみて下さい。

少し抽象的な文章ばかりになってきましたので、次回からは私自身の体験もおりまぜながら綴ってみたいと思います。


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[ 2010/07/05 18:20 ] 気づき(〜2012/12) | TB(-) | CM(-)

人生の意味

前回の投稿で「次回から私自身の体験もおりまぜながら」と書いたのですが、私の具体的な体験について書く前に、このブログはいったい何について書いているのか、ということを少し書いてみます。

生きているといろんなことを考えるときがありますよね。これでいいのだろうか、とか、自分って何なんだろう、とか、何のために生きているのだろう、とか、、、。現代の社会の中では、そんなことは考えてもしょうがない、とか、そんなことを考えるのは暗い人間のすることだ、という感じで否定的に受け止められることが多いのではないかと思います。

でも、これらの疑問は人間が人間として生きていく上で避けて通れないものです。

物質的な文明が右肩上がりに進歩し続けていた間は、物質的により豊かになっていけばこれらの疑問もいつか解決されるという夢を見ていられたのではないでしょうか。あるいは、そこまで楽天的でなかったとしても、物質的繁栄を享受することでこれらの疑問のことは一時的に忘れておけたのかもしれません。

もちろん物質的な豊かさは素晴らしいことで、そのこと自体には何の問題もないのですが、物質的な豊かさだけに目を奪われてしまって、世界のもう半分をどこかに置き忘れてしまったのではないかと思うのです。

ただ、その半分というのは、単に心を大切にするとか、自分の気持ちを大切にする、ということだけではありません。

たしかに、それまでは自分の気持ちを抑え周囲に合わせることで生きてきた人が、自分の気持ちに気づき、それを適切に表現していくことで、より生き生きと生きられるようになる、ということはとても大切なことですし、その段階は成長のプロセスの中で必要なものです。

しかし、一人の人間として自分らしく充実した人生を生きられるようになったとしても、その肉体はいつか必ず消滅します。形あるものはいつか必ず崩れていく。

その事実に否応無しに直面し始めたとき、人間はより深い自己探求に導かれていくのでしょう。その旅は、驚くべき発見もある一方で、どうしようもない虚しさと向き合うことが必要な時期もあります。でも、いつの日か、霧が晴れていくように、疑いようのない確信とともに真実が見えてくるときがくるようなのです。

本当の自分というのは、生まれてきては死んでいくこの身体ではなく、苦しんだり悲しんだり悩んだり喜んだりするこの心でもなく、それらがやってきては去っていく空間そのものなのです。つまり、すべては私であり、同時に「空(くう)」なのです。

ですから、今どんなに苦しんだり悩んだりしていても、その体験を見ている自分、目撃者としての自分を意識していくことで、言い換えれば、悩みや苦しみなど、自分に起こっている出来事に意識を向けるだけでなく、それを体験している主体に意識を向けていくことで、そこから本当の意味で抜け出していくことができます。究極の解放、ということが観念としてだけでなく、実際に誰もが体験できる事実として存在しているのです。

しかし、本当の自分はこの身体や心ではなく、すべては空っぽなのなら、この身体や心には何の意味もないのでしょうか。そもそも人生に何か意味があるのでしょうか?


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[ 2010/07/08 21:48 ] 気づき(〜2012/12) | TB(-) | CM(-)

人生の意味~色即是空・空即是色

前回の投稿の続きです。

人生には確かに意味があって、それが見えてくると生きることがとても楽に、そして自由になってきます。

このような理解に私自身がどういったプロセスを通ってたどり着いたかは、みなさんが実際にそこへ向かうプロセスを体験していくときに役立つかもしれませんので、また少しずつお話していきたいのですが、この数年の間に私が得た理解をいくつかの形で表現してみます。

すべては空っぽで本当は何もない(色即是空)。でも、その「空(くう)」、からっぽさそのものが、今私たちの目の前にある驚異的で神秘的で素晴らしい世界(光があり、色があり、花が咲き、風が吹き、怒りも悲しみも喜びもあって、信じられないほど不思議なあなたと私がいる世界)となって現れている(空即是色)。

世界のすべてはその、空、意識、気づき、神、ワンネス、などなど、どんな言葉で呼んでもいいけれど、そのたった一つの存在(あるいは存在の基盤)のさまざまな表現であって、一見別々のものであるように見える私と山、私とパソコン、私とあなた、私と世界は一つの同じもの。

私という存在が一人でこの世界の中で生きている、という感覚が小さくなってきて、自分を超えた大きな存在(空、意識、気づき、神、ワンネス、、)が私と呼ばれてきたこの心と身体を通して表現されている、という感覚が深まってくる。一般的に言う「生かされている」という感覚。

孤独感や世界との分離感が癒されてくる。本当の意味での癒し、ヒーリング、心と身体の健康というのは、この「他と分離している自分」という感覚を癒すこと=全体性を思い出すこと。

人生とは、一度分離の苦しみを体験し、そこから全体性へと戻ってくるプロセスそのもののこと。本当の自分に目覚めていくことが人間が肉体を持って生まれてきた目的。世界にはその進化の衝動が埋め込まれている。その進化のプロセスを意識して体験していくことで、個人は世界の進化の流れに乗ることができ、より深く人生を味わい、楽しむことができる。

そして、全体性へとたどりつけば、そこから先の人生は神のゲーム(リーラ)となる。自分を通して宇宙のプロセスが展開していくのを見守っていく。

心と身体を含めた目に見えるものや感じられるものはすべてはかないものだけれど、それを通してこの人生を体験し、目覚めていくことができる大切な乗り物。この乗り物を大切にしながら、つまり、日常の生活を大切にしながら、その一瞬一瞬に全体性の感覚、ワンネスを感じて生きていくことが人生の意味、目的。


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[ 2010/07/10 09:48 ] 気づき(〜2012/12) | TB(-) | CM(-)

最初の覚醒体験

さて、次に何を書こうかと思い、いくつか原稿の下書きをしてみたのですが、何を書くにも、まず私が今の仕事に導かれるきっかけになった最初の覚醒体験について読者のみなさんにお伝えしたいと思いました。

この体験についてはかなり前からホームページに公開している文章があって、そちらにリンクをはることも考えたのですが、このブログをきっかけにスペースまほろばのことを知って下さる方も増えているので、少し長くなりますが、全文を掲載します。

この体験が起こったのは1988年の春から冬にかけて、そして、この文章を書いたのは1997年頃です。その頃仲間とともに発行していたメールマガジンに5回シリーズで発表した文章で、「僕」という主語を使って少しフィクション風の表現になっていますが、すべて私の実体験です。

初めて読む方はもちろん、すでに読んだことのある方も、自分の内側に感じるフィーリングを味わいながら、ゆっくりと読んでみて下さい。

また、この体験について興味を持たれた方は「なーんだ、そうだったの?」~実践ガイドもご覧下さい。



連載小説「なーんだ、そうだったの?」第1回~第5回



■第1回「死の恐怖」

それは修士課程に進学して最初の冬だった。

その一年間「僕」は必死になって勉強した。後で思えば、異常なくらい。自分は勉強で身を立てていくしかないと思っていた。それなのに、この知識のなさはなんだ?こんなことではやっていけないぞ。もっと、もっと、勉強しなくちゃ。

大学院本来の講義は一日1コマか2コマしかなかった。なのに、学部の経済原論やゼミをはじめとして、ほとんど毎日、4コマすべて講義に出席していた。それが終わった後、研究会に出席していた日もあったなあ。

「僕」のこころは空虚だった。それを認めるのは怖かった。その空虚さを見ないですむのなら、どんなつらい努力でもした。

冬の気配が深まっていくにつれて、「僕」の身体は少しずつバランスを崩していった。がむしゃらに食べた。2合炊いたご飯を、毎晩一気に食べた。水が欲しくてしょうがなく、お風呂で水道の水をがぶがぶ飲んだ。その1年間に5kg以上体重が増えた。

見えないものにせきたてられるように、いつも落ちつきなく、次から次へと作業をこなしていった。あれが終わったらこれをやらなきゃ。こっちが済んだらこんどはあれだな。

どこまでいったら納得できるのだろう。その連鎖の果てに何があるのか?


2月、春休み。「僕」は大学を離れて実家にいた。下宿から送ったダンボール箱二つ分の本をテーブルの両脇に積み上げて、そこはまるで要塞のようだった。その本の壁に守られるようにして、「僕」は空しい思考の渦の中に巻き込まれていった。

はじめは風邪をひいたのかと思っていた。微熱が続き、咳が出た。そのころ、インフルエンザが流行していたし、子どものころから通っている病院でも風邪薬をくれただけだった。

しかし、症状はいっこうにおさまらない。身体はますますしんどくなるばかり。「僕」は本を読む気力もなくして、数日間ごろごろ過ごした。


2月の終わりに近いその夜、「僕」は居間とふすま一枚隔てた部屋にふとんを敷いて寝ていた。となりの部屋からは家族の声が聞こえてくる。「僕」の中で何かが飽和したのかもしれない。

何かが起こり始めた。

急に、家族の声が遠くに離れていくような気がした。

天井がどんどん遠くなっていく。

胸が締めつけられるように苦しい。

胸が「キーン」と鳴るくらい締めつけられる。

苦しい、苦しい、何が起こっているんだ。

パニックになった。

声が出ない。胸が張り裂けそうだ。この苦しさはなんなんだ。「僕」はこのまま死んでしまうに違いない。そうだ、死ぬんだ。「僕」はこのまま死んでしまう。「死」。とてつもない恐怖。「僕」は死ぬ。「僕」は死ぬんだー。

そのとき、「僕」のこころの中に奇妙な一連の思考が浮かんできた。

そうか、これから「僕」は死の瞬間を経験することが出来るんだ。これは生まれてはじめての経験だ。死の瞬間ってどんなだろう。なんだかわくわくするな。

そして、不思議な安らぎがやってきた。

「僕」は眠ってしまったのだろうか。



■第2回「白い光」

その瞬間、「僕」の中で何かが飽和し、破裂した。だが、その意味がはっきりとわかるもう一つの体験をするのは、まだ半年以上も先である。

大学はちょうど春休みに入ったところだった。しばらくは実家で休んでいても大丈夫ではあった。それにしても苦しい。これは本当にインフルエンザなのか?食欲が全然ない。3月の半ば10日間ほどはほとんど何も口に入れることが出来なかった。1ヵ月で体重が10kg減った。

何より、わけのわからない苦しさに苛まれている。身体を動かすのがつらい。横になっていても、四六時中、どうしようもない苦しさに襲われている。さすがに心配になり違う病院に行った。血液検査の結果、肝機能を表わす数字が多少悪化していた。軽い急性肝炎だったのではないか、という診断だった。

それからは、やれ食事療法だの、安静が一番だの、周囲のさわがしかったこと。

でも、何かがおかしい。外に出ようとしても、足が重い。足を引きずるようにして玄関を出るのだが、そこから外へ出て行くことができない。

そして、眠い。とにかく眠い。横になっていても苦しいので、こころ休まるのは眠っているときだけ。「僕」は昼間から暖かい布団の中で眠り続けた。

しばらくすると不思議な感覚がやってきた。昼間、締め切った障子を通して寝室に差し込む白い光の中で眠っていると、なんとも言えない心地よさがやってくる。生まれてこのかたまったく知らなかった感覚だ。その感覚を味わいたくて、また眠る。

しかしながら、当然夜は眠れない。夜が来るのが怖い。深夜放送のラジオから流れてくる声だけを命綱のようにして、夜が明けるのを待つ毎日。夜が明け、部屋が朝の光に満ちたころ、「僕」はまた白い光に包まれて眠る。

結局「僕」は大学を休み、夏までそうやって実家で過ごした。


秋の気配が近づいてくるころ、「僕」は少しずつ外に出ることも出来るようになった。そして、ぼんやりと考えた。「いつまでもここにいてはいけない。」

大学に戻って何をするのだろう。勉強?何の?経済学に対する興味はすっかりなくなっていた。いや、もとからなかったのだ。いやいや、そんなはずはない。それじゃあなんのために勉強していたんだ?

わからない。でも、「僕」はとにかく一人になりたかった。ふらつく身体をかろうじて支えながら、「僕」は下宿のアパートへと戻った。


4月から大学に出ていない「僕」には出席する講義はなかった。一日一回、研究室に顔を出し、夕方には帰って来て寝る生活。あのころ、「僕」は何をしていたのだろう。ただ、かろうじて肉体を維持するだけの生活。

過去のことも未来のことも、「僕」の頭の中にはなかった。

また冬がやってきた。研究室のガスストーブが暖かい。

それは、たしか12月中旬のある夜だった。



■第3回「誕生」

その頃の「僕」は日記をつけていた。毎日書いていたわけでもないし、それほど詳しく書いていたわけでもない。ただ、こころを揺さぶられるような出来事があれば、それを表現せずにはいられなかった、はずだ。

「その日」が正確には何日だったのか、それを確認するすべはもうない。「12月中旬」としか覚えていない「その日」の前後の日記は、空白だった。しばらくたって、たぶん一ヵ月以上あとだったと思うのだが、「その日」に起こったことの重大さに気付いた「僕」は、その日を思い出して日記帳にしたためた。

「その日」の夕方、あいかわらず重たい身体をなんとかひきずって、「僕」は研究室からアパートの部屋に戻っていた。食事を済ませてからは、特に何かをする気力もなく、ぼんやりしていたのかもしれない。外はすでに暗くなっていた。

ひどく身体がだるくなってきた「僕」は、布団をしいて横になった。これもいつものことだ。

また、あの苦しさがやってきた。「僕」は布団にしがみついて、それをやりすごそうとした。



ふと気がつくと、不思議なことが起こっていた。

「僕」の身体の表面が、キラキラと光輝いている。

夢を見ていたのではない。意識ははっきりしていた。

何が起こったのかはわからない。そのときの「僕」は、そんなことを考える余裕すらなく、ただそこにいるだけだった。



いったいどのくらいの時間、その状態が続いていたのだろう。瞬間だったのか、数十分だったのか、まったくわからない。

始まったときと同じように、ふと気がつくとその状態は終わっていた。

「僕」は注意深くあたりを見回した。さっきまで寝ていた布団の中に、「僕」はたしかに寝ている。机もテレビも本だなも、さっきまでと同じところに、たしかにあった。

でも、「僕」にははっきりと理解できた。

「僕」は違う世界にやってきた!

すべてはさっきまでと同じようにそこにある。でも、何かが根本的に違うのだ。そこは、それまでの「僕」の知らなかった全く新しい世界。

「僕」は生まれ変わったのだ。

いや、この表現はあまり正確ではないな。

「僕」は生まれた。

さまざまな喜びと苦しみがいっきょに押し寄せてきた。



■第4回「光の中へ」

翌日、「僕」はいつものように遅い時間に目覚めた。空腹を満たすため、自転車に乗って外に出た。あまりのことに「僕」は驚愕した。

世界がこのように「在る」!

花が咲いている。太陽が輝いている。風が吹いている。人が歩いている。車が走っている。音が聞こえる。香りがある。色がある。

「僕」にはそのすべてが不思議で不思議でどうしようもなかった。

いったいこれは何事だ!

今まであまりにあたりまえで、その存在すら忘れていた世界のありとあらゆる要素が「僕」の存在の中心にまで付き刺さってくるような強烈な感覚。「僕」はふらふらしながらいつもの学生食堂までたどりついた。

セルフサービスのカウンターで、いつものメニューをいつものように注文する。いつもの食堂のおばちゃんが、いつものように何か言った。ん?

おばちゃんは、その口を動かし何かの音を発っした。「僕」の耳はその音を聞き取り何かを理解したらしい。いやいや、もちろん、そのときはそんなこと考えてもいなかった。ただ、おばちゃんと「僕」の間に何かが伝わったということ、そのことが「僕」を驚かせた。

食事を済ませ、アパートに戻る。

すべての経験が「僕」にとっては生まれて初めての経験。ものすごいエネルギーを使う。くたくただ。

お風呂の準備が出来た。お風呂に入ろうと服を脱いでいるときにわかった。

「僕」には肉体があったのだ。

すっぱだかのまま床に座り込んで、「僕」は自分の身体を、珍しいものでもみるかのように撫でまわした。24年間いっしょにいたはずなのに、今までその存在を完全に忘れさられていた「僕」の身体。懐かしさとともに、涙が込み上げてくる。

ベランダ越しに見える街灯のあかりがやけにまぶしい。

そうか。そうだったんだ。

「僕」は自分に起こったことを少しずつ理解し始めていた。

もっとも、「僕」が見たのは「光」ばかりでは、ない。



■第5回「生まれいづる苦しみ」

それはとほうもない恐怖だった。

「僕」はこの世界の中にたった一人で存在していたのだ。まるで母の子宮から放り出され、だれからも世話してもらえない赤んぼうのように。

もともと友達が多い訳ではなかった。それにしても、研究室へ行けば毎日のように顔をあわせ、話をし、食事をともにする友人はいる。地元の幼馴染みの友人ともたまには連絡を取り合う。その上、両親だって、弟だっているのだ。

しかし、「僕」はひとりぼっちだったのだ。

それまで自分にとって近しい関係だったすべての人が、見知らぬ他人になっていた。今にも気が狂いそうだった。

頻繁にやってくる、身体がばらばらに壊れていきそうな不安感。それが、昼といわず、夜といわず、突然「僕」を襲う。

夜、それがやってくると、ふとんを抱きしめ、息をこらして、ただ去っていくのを待つ。昼間、外を歩いている時だと、何かつかめるものを探し、そこに身体を支えて、しばらくじっとしている。

それがいつやってくるのだろうか、という想いそのものが「僕」を不安にさせた。

すがるものが何もないからっぽの「僕」は、自分をかろうじて支えるために日記を書き続けた。大学ノートに毎日4、5ページ。自分が完全に崩壊してしまうのを防ぐため、「僕」は「僕」自身から湧き出してくるものを、電車の中でも、食事の最中でもかまわず、必死で書いた。

年が開け、しばらくして昭和が終わった。新元号「平成」を発表する官房長官の記者会見のテレビを見ながら、何か新しい時代が始まったことを実感した。

絶望的な孤独感の中、一方で「僕」にはわかっていた。「僕」は助かったのだ!

身体の中を巨大なエネルギーが駆け抜けていく。身体の内側に、それまで感じたことのない暗闇の世界があった。いや、それは内側ではない、外側でもない。そう、内側と外側がひっくりかえってしまった。

それまで「僕」の外側に見えていた世界は実は「僕」の内側にあり、「僕」の内側の世界だと思っていたものが全部外側にあった。口から手をつっこまれて、身体を全部裏返しにされたような奇妙な感覚。

内と外は同じものだった。



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[ 2010/07/13 18:21 ] 最初の覚醒体験 | TB(-) | CM(-)

「私」という夢から目覚める

前回の最初の覚醒体験を読んで下さった方、どんなことを感じられたでしょうか。

誤解のないように念のため強調しておきたいのですが、この体験をしたことで私が悟りを開いたとか、特別な人間になった、というわけではありません。この体験は、それをきっかけに始まって22年過ぎた今も続いている目覚めと癒しのプロセスのスタートに過ぎなかったのです。

そもそも、これはもっとずっと後になってからはっきりとわかってきたことなのですが、悟り、あるいは意識の目覚め、ということの本質は、悟ったり目覚めたりする分離した個人というものは思考が作り出したまぼろしのようなものだ、という気づきです。

今思えば、私自身もこの体験のあと「私は悟った」「私は目覚めた」というふうに考えたことが確かにありました。でも、そう考えていても、必ずそのあとに、いややっぱりそうではなかった、と思わされる出来事が必ずあるのです。

その後さまざまな体験をする中で、本当の目覚めというのは「私が目覚める」わけではなくて「私という夢から目覚める」ことなんだ、ということが見えてきました。ですから、そもそも「私が悟る」「私が目覚める」という言い方は矛盾しているわけです。

「私は目覚めた」とか「私は目覚めていない」といった思考の背景にいつも変わらずに存在している何かがあります。悩みや不安や喜びなどにほんろうされている小さな私がいるけれども、一方で、その悩みや不安や喜びが現れては消えていく大きな空間があるのです。

その背景、その空間を意識しつつ、この生々流転する世界を意識的に生きていくことが目覚めた人生と言えるのではないでしょうか。

つまり、今あなたがどんなに辛くて苦しくても、そのまま、その今のあなたの状態のまま目覚めることができる、ということなのです。誰もがすでに悟っている、という言葉はこんなことを表現しているのかもしれません。


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[ 2010/07/15 23:28 ] 気づき(〜2012/12) | TB(-) | CM(-)

心の病と意識の目覚め

思った以上に多くの方からこのブログのご感想やご質問などをいただいています。すべてにはお返事できない場合もあって大変申し訳ないのですが、とても嬉しいですし、私の力になっています。これからも感じたことがあれば、お気軽にメールを下さいね。

なお、携帯でご覧の方は右横のメールフォームが見えない場合があるようですので、各投稿の最後にアドレスも載せるようにしてみました。



この最初の目覚めの体験が起こる前の私はわけもわからずに苦しい状態でした。そして、その体験のあとも「これで自分は助かった」という思いもあった一方で、苦しさそのものはずいぶん長い間続いたのです。もしそのとき病院にいって「私が世界なんです」なんて言ったとしたら、心の病気だと診断されたかもしれませんね。

心の病がすべてスピリチュアルな目覚めと関係しているわけではありませんが、目覚めが起こり始めているのに、それを単なる病気だとして、成長のプロセスの大切な一部である苦しみを必要以上に薬で抑えてしまっている例も、少なからずあるのではないかと思います。

最近になって心の病が特に増えてきているのは、人間全体、宇宙全体の意識が次の段階へ進もうとする衝動が大きくなってきているのに、それに関する知識が少なかったり、そのエネルギーに恐れを感じたりすることで、どこかで抵抗してしまっているからではないでしょうか。

人間の意識の成長のプロセスには順番があって、まず自我(小さな自分・エゴ)をしっかりと確立し、その次に、その小さな自分を超えた大きな自分と繋がっていく必要があります。もう少し正確に表現すれば、小さな自分が大きな自分にとけ込んでいく、という感じでしょうか。この順番を飛ばすことはできませんから、目覚めの体験をしたとしても、そこから心の痛みを癒し、条件付けを手放し、健全な自我(小さな自分)を作り上げていく必要がある場合もあるのです。

すべては幻想で空(くう)なのだけれど、そのことを自覚的にこの目に見える人生の中で表現していくためには、つまり、空を生きていくためには、その足場としての小さな自分が必要になる、というような感じです。

もちろん、ある程度しっかりとした自我を確立した人であっても、目覚めのプロセスにはさまざまな苦しみもともないます。ただ、私のこの最初の体験は、自我(小さな自分)がしっかりと形作られる前に起こったので、その分、その体験を人生の中に統合してプロセスにはより多くの困難があったように思うのです。


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[ 2010/07/18 11:36 ] 気づき(〜2012/12) | TB(-) | CM(-)

スカイプ

最近になってやっと新しいパソコンをメインで使うようになったので、スカイプを使ったカウンセリングが出来ないかなと思って準備を整えてみました。実際にカウンセリングのメディアとして使えるのかどうか、今ひとつ感覚がわからないので、すでにスカイプを使っている読者の方おられましたら、少し私と話してもらえないでしょうか?

ブログやホームページの感想などを教えてもらえると嬉しいですし、セラピーに関するお問い合わせや、中野の声を聞いてみたい(顔を見てみたい)というのでもオッケーです。

なお、個人的・具体的なご相談に関してはメールの無料相談と同じく、同じ方のご利用は2、3回程度までとさせていただきます。

skype名はshinsaku1922です。右上のステータスが「オンライン」になっているときは、お気軽にクリックしてみて下さいね。中野宛にskypeされます。よろしくお願い致します。

現在は行っていません。お話して下さった方、ありがとうございました。有料の電話・スカイプカウンセリングをご利用下さい。


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[ 2010/07/20 21:36 ] お知らせ | TB(-) | CM(-)

直感を信頼する

別のところでも少し書いたのですが、このブログは、当初はホームページの中で最近はほとんど唯一更新していた「今日の一言」という日記のようなページをブログに置き換えるだけのつもりで始めたものでした。ところが書き始めてみると表現したいことが自分の内側から次々溢れ出してきて、一つの独立したサイトのようになってきたのは、自分でも驚いています。

これまで暇なときには本を読んでいるか、散歩したり昼寝したりしていることが多かったのですが、最近はパソコンに向かって原稿の下書きをする時間が増えています。

特にリラックスしたときや、寝ようと思って横になったときにいろんなアイデアが心の中に自然と浮かんでくるので、眠いのにまた起き上がってパソコンに向かったりすることもあります。

こうして内側からわき出してくるものを表現していくと、エネルギーがとても流れる感じがして、自分の中の一番大切なもの、大きな自分との繋がりがますます深まっていくような感覚があるのです。

これまで10年以上にわたって、ホームページなどでは同じようなことを書いてきているのに、心のどこかで「こんなことを書いても大丈夫なのか?」というような恐れや不安があったような気がしています。そして「なんで自分はこんなことをやっているのだろう」という感覚もありました。そんな感覚が完全になくなったわけではないのですが、その抵抗感よりも大きな自分(宇宙、意識、神、、、)がこの私の心と身体を通して何かを表現したがっている衝動のほうが大きくなってきたような感じがしています。

よく言われる言い方ですが、どんなことが起こっていても、それは宇宙の大きな流れの一部であって、そうなっていることに意味があります。その、瞬間瞬間に起こっているプロセスを信頼し、身をゆだねることができるようになってくることが、意識の目覚め、本当の癒しの大切な一部です。

これは一般的には、直感を信頼する、というような言葉で言われていることでしょうか。

もっとも、直感を信頼するといっても、何でも感じたようにやればいい、というわけでもないと思います。すべては空で幻想だとしても、やはりあるレベルでは、この心と身体、そして、たくさんの心と身体が集まって作られているこの世界(社会)も現実です。

もし私が、心に浮かんでくることをそのまま書きなぐってこのブログに載せたとしたら、読者のみなさんも読みにくいと思います。やはり、大きな自分から溢れてくる言葉を一度思いつくままに書いたあと、小さな自分が理性的な目を通してその文章を修正することは必要でしょう。

例えば、もしあなたがもう会社には行きたくないと思ったとしても、明日から誰にもつげずにインドに行ってしまうようなことは、できればしないほうがいいのではないかと思っています。(もしそうなってしまったら、それはそれで意味のあることかもしれませんが)

直感は大切なのですが、この目に見える世界とのバランスを大切にするということが真の癒しと目覚めにとってはもっと大切な感じがしています。


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[ 2010/07/20 21:56 ] 気づき(〜2012/12) | TB(-) | CM(-)

ひとりの時間

ひとりの時間は大切な時間

いつもまわりの人に気をつかって

あなた自身への気づかいを忘れてない?

ひとりになったとき、自分と「対話」する必要はない

心の中を流れる言葉をしずめて、ただ自分自身の存在を感じてみる

自分自身に「気」を向ける 「気」をつかう

すると、存在の一番奥にある何かが開き始める

なれてくると、誰かといっしょにいても「それ」を感じられる

私の「それ」はあなたの「それ」

すべてはつながっている



論理的な文章ばかり書いていると、意識の半分しか使っていないような感じがして脳内バランスがかたよってきた感じがしてきました。これからはこんな感じの文章もときどき載せていこうと思います。



スピリチュアルな視点を持ったカウンセリング/セラピーの情報は「スペースまほろば」をご覧下さい。電話・スカイプでのセッションも行っています。
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[ 2010/07/22 18:56 ] つぶやき | TB(-) | CM(-)
プロフィール

中野真作

Author:中野真作
スピリチュアルセラピスト。1997年からヒーリング&カウンセリングルーム「スペースまほろば」主宰。悟り・非二元の視点から人生のあらゆる苦しみを手放すお手伝いをしています。
スカイプセッションと境港での対面セッションは随時、東京・大阪での出張個人セッションやお話会も定期的に行っています。セッションの詳細につきましては、スペースまほろばをご覧下さい。

「悟り(非二元)と癒しのお話」youtubeで配信中

中野真作の悟り(非二元)と癒しのお話シリーズ第一回「悟りの本質〜すべては自然に起こっている」。その他の動画はyoutubeのスペースまほろばチャンネルをご覧下さい。
東京・大阪・福岡出張個人セッション
■福岡出張個人セッション
2023年11月8日(水),9日(木)
■東京出張個人セッション
2023年11月20日(月)〜24日(金)
■大阪出張個人セッション
2023年12月18日(月)〜21日(木)
オンラインでのセッションは随時ご予約をお受けしています。予約状況はこちらから。
中野真作の癒しと目覚めのお話会スケジュール
ゆったりした雰囲気の中で、あなたの本性である悟り、沈黙の香りを味わっていく集まりです。悟りたい方、非二元に興味のある方、生きるのが辛い方、友達がほしい方、ただのんびりしたい方、お気軽にご参加下さい。>>>お話会の総合案内とスケジュールの一覧はこちら
■中野真作の癒しと目覚めのワークショップ〜「私はいない」を越えて人と世界とつながる方法〜
福岡2023/11/7(火)10:15〜17:00
東京2023/11/19(日)10:00〜16:45
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