次の文章はホームページの中の
「なーんだそうだったの?~実践ガイド」の続きです。少しまとまったらホームページの方にも掲載する予定です。
この一つ前は
「死の恐怖を超えて」をご覧下さい。
今回の新しいシリーズを最初から読んでみたい方は
「歯が抜ける~死と再生あるいは通過儀礼」をご覧下さい。
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■「なーんだそうだったの?~実践ガイド」(26)
最後の壁
本当の目覚めのプロセス(=全体性に気づいていく本当の癒しのプロセス)というのは「私が目覚める」のではなくて、「私」という幻想から目覚めていくことです。
もう少しわかりやすい表現をすれば、私という個人が目覚めを体験していくのではなくて、大きな私が「小さな私」という夢を見ていた状態から覚めていくのです。最近私がよく使う表現で言うと、小さな私から大きな私へ自分という感覚が広がっていくような感覚です。
そうなって初めて、親、社会、環境などによって条件づけられてきた自分の在り方を超えて、本当の自分の在り方、本当の性格とでも言えるものが自然に流れ出してきます。
その感覚に気づき始めると、自分を小さな枠の中に閉じ込めていたさまざまな思い込みから解放され、自分というものがこれまで自分で想像していたどんなものとも違うのだ、ということが見えてきます。人生の苦しみが小さくなり、真の自由の感覚が広がってきます。ありのままでいい、という言葉の本当の意味がわかってきます。
しかし、その感覚を実感するためには小さな私(エゴ)が本当の自分である、という思い込みを手放していく必要があります。一般的に言われる「エゴの死」のプロセス、「死と再生」のプロセスです。
私は22年前の最初の体験のときから、この「死と再生のプロセス」を何度も繰り返してきていた、と感じていました。実際にそうだったのだと思うのですが、そこにはまだ「小さな私」が死を恐れてしっかりとしがみついていたような気がするのです。
例えば、1991年に8年も過ごした大学を離れて就職したとき、1996年にその後の生活のあてもないのに会社を辞めたとき、1998年に新大阪に引っ越したとき、そして2002年に境港に引っ越したとき。当時はそのときそのときで悩みながら不安を感じながら新しい環境に移行していき、自分の中で何かが死んで生まれ変わっていく、という感覚を確かに感じていたのですが、それを体験している中心としての「小さな私」自身は揺らぐ事なく存在し続けていたようです。
今振り返ってみると、それが本当に緩み始めたのは2006年の父の死の少し前からだったような感じがします。
父が亡くなる2ヶ月前、最後に父に会ったあと、父の死が近い事を実感して私の中で何かが崩れていくような不思議な感覚がありました。
その前後に、自分にとって大切な物=自分のアイデンティティの一部となっている物が壊れていくことが続きました。
2006年の春にはパソコンのハードディスクが壊れました。このときは少し前から様子がおかしくなっていたので、ほとんどのデータはバックアップできましたが、数日分の送受信メールが失われました。
同じ年の秋には携帯電話(PHS)が突然故障し、かなり焦りました。というのも、パソコンと同じように電話はセラピーのお客様との大切な連絡手段なので、それが使えなくなることで、自分の仕事=セラピストとしてのアイデンティティが揺らぐような感じがあったのです。(この電話の故障は、パワースポットとしても有名な島根県の某神社に行っていたときに突然起こったので、エネルギー的にも何か意味がありそうな気がします)
その後の数年間には、身体のそこかしこに小さな不調を感じることが続き、後で考えればただ疲れがたまっていただけで大した事ではなかったと思うのに、とても不安になって病院にいくことが何度かありました。実際に検査をしてもらっても特に異常はなく、しばらく休んでいれば治っていったのですが、そのときには最悪の状況を想像してしまい、そのことでますます不安になっていくような状態でした。
それからは、セラピーの仕事を続けていても、何かがしっくりこない感じが自分の深い部分にあることを意識し始めました。
とても忙しくて大変なときには、こんな状態でこれからも続けていけるのだろうか、心と身体が耐えられるのだろうか、と不安になり、暇なときが続くと、こんな状態で生活していけるのだろうか、と不安になり、、、。どちらにしても不安で心配なのですね。(^_^)
ここまでくると、問題は外的な環境がどうなのかということではなくて、ただ内的な問題なのだ、ということを認めざるをえなくなってしまいます。
でも、私のエゴ(小さな私)は「これまで自分は何度も目覚めの体験をしてきて、いろんな勉強もしてきたし、もう悟っているのだ、内的な問題なんかもうないはずだ」とささやくわけです。問題はそのエゴ(小さな自分)を自分だと思い込んでいること自体なのに!なんとややこしいことでしょう。(^_^)
父の死の前後あたりから本格的に始まったエゴの死のプロセスは親知らず抜歯事件をきっかけに最後の壁を突破したのかもしれません。抜歯のあとの心理的な動揺がおさまってきた今、自分が大きな力に守られていることを実感として感じられるようになってきました。いや、自分というのは、その大きな力そのもののことなのだ、という感じでしょうか。
これまで私が自分で頑張ってやってきたように思っていたことも、すべて私を超えた大きな力によって自然になされてきたことだったのです。すべては大きな自然の一部として、ただ起こっている。そこにそれを起こしている個別の存在(私やあなた)はいないのです。
もちろん、見かけ上、あなたはあなただし、私は私としてこの世界の中で機能し続けています。ただ、これまで自分の考え、自分の感情、自分の意思だと思っていたものが、大きな自分がこの心と身体を通して何かを表現しようとしているだけなのだ、ということがわかってきたような感覚です。
「自分」というものにとらわれずに、自分(と思っているこの心と身体)を通して自然に流れ出してくるエネルギーに身をまかせることができるようになってくるのです。そこには不安や心配や後悔や罪悪感がなくなってきます。
「エゴの死」という言い方をしますが、別に私がなくなってしまうわけではなくて、「私」という感覚が、頑張って何かを行う主体という存在から、「大きな私」のエネルギーを宇宙に表現するための通り道になっていくのです。
もちろん、この目覚めのプロセスを体験することで私が完全な人間になったわけではありません。エゴ(小さな私)としての私は傷ついた子ども時代を体験し、それを癒そうとして今でも苦闘している小さな存在です。でも、そんな過去の体験を自分のアイデンティティにする必要はない、ということに気づいてきたのです。
私は最初の体験から20年以上もかけてここまで旅を続けてきたわけですが、宇宙全体のエネルギーが進化し高まっている現在、特に真摯な探求を続けている多くの人にとってはそれほどの年月は必要ないのではないかと思っています。
そのために私に出来る事として、セラピーを行うことの他に、自分で継続的にやっていけるような瞑想的なエクササイズを、セラピーを受けて下さる方やグループに参加して下さる方にもっときちんと指導していくことも必要なのではないかと思い始めているところです。
次回は、この探求の旅がこれほど長くなった私固有の問題点について書いてみようと思っています。
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