前にも少し書きましたが、お盆すぎからなぜかきちんと座って瞑想したくなることが増えています。そうやって瞑想しているときや、寝る前に布団に横になって瞑想的な意識状態に入っているとき、微妙な怖れや不安のような感覚が浮上してくることがあります。
それは、この先身体が老いていくことの怖れのようでもあり、死に対する怖れのようでもあります。
この感覚は、今振り返って考えてみると、ずいぶん若い頃からときどき意識に上ってきていたもののような気がします。20代にサラリーマン生活をしていた頃、夜中に目が覚めて、胸のあたりが締め付けられるようななんともいえない不快感とともに感じていた感覚と似ています。
ただ、その頃と違うのは、当時はそういった感覚をありのまま受容していく心のスペース、心の力がまだあまりなく、その感覚は無意識のうちにまた心の奥に閉じ込められていました。そうしておかなければ、そのエネルギーが大きすぎて持ちこたえられなかったのかもしれませんが。
今は、そういう怖れや不安が意識に上ってきたときこそ、それらを本当に癒して統合していく大切なチャンスなのだということがわかっていますし、長年の内的実践の結果、それらを受け止めるスペースもずいぶん広がっています。
とはいっても、不快な感覚を避けてしまう無意識の条件付けというのはとても強力なので、不安や怖れが浮上してきたときに、しらないうちにそれらを再び抑圧してしまう可能性は常にあります。そうして、痛みを手放して新しい領域へ入っていくことよりも、慣れ親しんではいるけれど不安や恐れにいつも縛られている現状にとどまろうとしてしまうわけです。
まずは、自分がある特定の感情を感じることを無意識に避けていることに気づくようにしてみて下さい。すると、一時的には不安定な感覚を感じることが増えるかもしれませんが、それらの感覚をただありのままに存在することを認めていくと、深い安心感、安定感を感じる場所にたどり着きます。
また、このことは瞑想的な実践に親しんでいる人も陥りやすいポイントです。
瞑想することによって、怖れや不安や怒りや悲しみなどの不快な感情を感じないようにしよう、なんとか心の平静を取り戻そうとしていることがあります。瞑想がいわゆる「抑圧的な瞑想」になってしまっている場合です。
本当の瞑想とは、何かを感じないようにすることではなくて、今この瞬間起こっている感情を良いとか悪いとかの判断なく、ただありのままにその存在を認めることです。
すると、怖れや不安などの感情はその力を失っていき、否定的なエネルギーだと思っていたものが、実はあなたの本性である意識、空、光、無、神そのものの一部であったことを思い出します。
すると、あなたの内的な空間はますます広がり、出来事をありのままに受け止める力が深まります。すると、まだ残っていた否定的なエネルギーが浮上してきやすくなり、それを受け止めることでまた内的な空間が広がる、、、。
このサイクルは、すべてのものが自分であると同時に意識、空、光、無、神そのものであることが理解されるまで、そもそもの初めから自分はありのままで大丈夫だったのだと気づくまで続きます。
最近は、ちょっと不思議な感覚なのですが、不安や怖れがやってくるのが楽しみ?なような、それを待ちわびているような感覚すらあります(^_^)。
不安や怖れがやってきたときに、その感覚とともにいて受容的な気持ちで接していると、少し言い方を変えれば、その感覚が浮かんでいる空間を感じていると、心が楽になるだけでなく、身体も緩んでいく感じがします。
最近特に気になっている首から肩にかけてのしつこいブロックが音を立てて外れていくような感じがするときもあります。
不安や怖れを探求の材料に使うことができれば、怖いものはなくなるかもしれませんね。
スピリチュアルな視点を持ったカウンセリング/セラピーの情報は
「スペースまほろば」をご覧下さい。
電話・スカイプでのセッションも行っています。
ご感想などは
shinsaku@mahoroba.ne.jpまでお願い致します。

こちら↑の2つも↑クリックお願い致します。
- 関連記事
-