アジャシャンティの
「あなたの世界の終わり」
をぼちぼち読んでいます。原著で何回か読んだとはいえ、私の英語力はそれほどでもないので、翻訳で読み直してみると新たな気づきもあって、なかなか面白いです。
目覚めていくということは、本当に「自分という世界の終わり」なのですね。
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最近ますます心が静まってきている感覚があります。
自分の周囲で何かが起こって、以前だったらあれこれ考えて心配したり不安になったりしたような状況に出会っても、以前と同じような反応が起こらなくなっていることに気づいて、不思議な気分になることがあります。
以前だったら心配の思考が自然にわきだしてきて、それに対して身体が反応し、不安になっていたようなときでも、何も思考が起こらずに、ただそのときその場所でやるべきことをやっている自分がいたりします。
自分が自分の意思で何かをやっているというよりも、その場の状況が自分を動かしている、という感覚に近いです。
心配や不安が行動の原動力となっていたときよりも、物事は自然にうまく進んでいくような感じがします。
そこには「自分」というものはなく、その「自分」あるいは「私」というものも、一つの観念、一つの思考にすぎなかったのだ、という感覚があります。
「自分」という思考を中心に形づくられていた世界が崩れていくような感覚、と言ったらいいでしょうか。
いやいや、そもそもそんな世界はもとからなくて、ただ思考が作り出した幻想だけがあったわけですが。
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「すべては思考である」という考えは好きではない、という言葉を聞いたことがあります。
エゴにとっては、「すべては思考である」と認めることは、自分自身が死んでしまうこと、自分自身の存在がまぼろしであったと認めることと同じですから、とても抵抗があります。
エゴが抵抗しているな、と感じるときには、「すべては思考である」ということも単なる思考にしかすぎない、ということを意識してみるといいかもしれません。
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自分という観念を中心に形作られている世界はもともと幻想なのですから、やがてそこから離れて真のリアリティを思い出すときが必ずやってきます。
自分という世界が終わっていく自然なプロセスに無意識に抵抗していると、そのプロセスを目に見える世界に投影することで、何年何月に世界が終わる、というような、いわゆる終末論的なものに惹かれていくことがあります。
肉体の死を恐れることも、同じ投影のプロセスです。
自分の死が怖くなったり、世界が終わってしまうのではないか、というような漠然とした不安を感じたときは、自分という幻想が終わりつつあるのです。
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自分という世界が終わったとしても、心配することは何もありません。自分という感覚がより大きなものにシフトするだけです。
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