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「なーんだそうだったの?~実践ガイド」の続きです。少しまとまったらホームページの方にも掲載する予定です。
この一つ前は
「「今ここ」にとどまる」をご覧下さい。
今回の新しいシリーズを最初から読んでみたい方は
「歯が抜ける~死と再生あるいは通過儀礼」をご覧下さい。
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■「なーんだそうだったの?~実践ガイド」(28)
二重の目覚め、二重の苦しみ
これまでの目覚めのプロセスでは、人生の前半は家族を持ち、経済的な基盤を作り、社会の中である程度の居場所を確保してから、つまりこの世的な人生の目的をある程度果たしてから、どうも人生にはそれだけではない何かがありそうだ、ということを感じ始め、それをきっかけに目覚めや覚醒といった人生のもう一つの側面へと探求を進めていく、というパターンが多かったのではないでしょうか。
ところが、世界全体の意識進化のプロセスが進んでいるせいなのか、その段階を経ずして、ずいぶん若い時期に最初の目覚めの体験をする人が増えているような感じがします。
この視点から自分の体験を振り返ってみると、22年前のあのときに、通常の意味での自我の目覚めと大いなる自分への目覚めが同時に始まったような感じがするのです。
これまで一般的だった目覚めのプロセスのモデルであれば、大いなる存在(存在のもう一つの次元)に気づき始めたときには、ある程度しっかりした(小さな)自分という感覚をきちんと持っていて、社会的にも居場所を持っていますから、その「この世的な」価値への執着を手放すという苦しさはあったとしても、大いなるものを認識する主体、認識する枠組みはしっかりと存在しているのではないかと思うのです。
ところが、若い時期にこのプロセスが始まると、小さな自分を確立するプロセスと大きな自分を認識するプロセス(小さな自分へのしがみつきを手放していくプロセス)を同時進行で行っていかなければいけない、という二重の困難があるのではないでしょうか。
私に最初の目覚めの体験が起こった後、生きることの苦しさ自体はまだまだ続いていくのですが、心のどこかで「自分は助かった」という感覚が生まれました。そして、これはうまく表現しにくいのですが、心の中、というよりも頭の真ん中あたりに、生まれて初めて「私」という小さな感覚が生まれていることも感じました。それまで自分は身体としては生きていながらまったく生きていなかったのだ、という感じがありました。
そして不思議なことに、それと同時に「自分はいない」という感覚、自分はこれで死んだのだ、という感覚もあったのです。自分はこれでもう死んでしまって、これから先の人生は余生なんだ、と思ったのです。
今文章にしてみるとすごい矛盾ですね。でも、これは確かにそのとき感じていたことそのままです。言葉ではこれ以上うまく表現することができません。
とはいえ、その目覚めの体験が現実の生活にすぐに直接プラスの影響を与えたというわけでもなく、目覚めの体験のおかげでこの世的な世界(合意的現実の世界)からいきなり自由になったわけではないのです。自由になる前に、まず一度それにしばられる体験が必要だったのです!
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当時の私は、その最初の体験によって得られた洞察を活かそうにも、多少のアルバイトやサークル活動は行ってはいたものの、ほとんど引きこもりに近い学生生活を送っていて、自分の力で現実生活を切り開いていくようなパワーもなく、親からはよい学校に行ってよい会社に入ることが幸せだ、というメッセージをずっと受け取っていたため、特に深く考えることもなくゼミの先生から紹介された会社に就職しました。
なんとなく違和感を感じつつ、ここはずっといる場所ではないなと思いながら、会社を辞めてどうするというヴィジョンもなく、セラピーを受けたり、付き合い始めていた現在の妻と会ったりする時間だけが、本当の自分に触れて、生きるエネルギーをかろうじて引き出してくれる貴重な時間になっていたように思います。
そして会社を辞めてから10年以上が過ぎた頃から、最近このシリーズでも書いているような、本当の意味で自我が死ぬ体験、小さな自分から大きな自分へとアイデンティティが移行していく体験が起こり始めたのです。
結局のところ、「小さな自分」は思考の作り出したまぼろしのようなものであることに気づくために、一度「小さな自分」を仮に作らなければいけなかったわけです。それが、多くの人にとっては「社会的な地位のある私」であったり「お金持ちの私」であったりするのと同じように、すでにそういうことに興味を持てなくなっていた私の場合は「スピリチュアルな探求をしている私」だったわけです。
その上、「スピリチュアルな探求をしている私」は他の人よりもレベルが高いのだ、というような優越感を感じることで、心の奥の劣等感、無価値観を無視し、未解決の心理的問題を無意識に閉じ込めてしまう、いわゆる精神物質主義、あるいはスピリチュアルな抜け道に入る(spiritual bypassing)ような状態になっていました。それをやっと実感できたのは、この数年のことなのですが。
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自分が直感的に知った世界と目に見える現実の世界のギャップに苦しんでいる方が多くいるようです。どちらがより真実であるとか、どちらがより大切であるということはありません。より意識が深まってくれば、どちらも大切だし、どちらもそれほど意味はないということがわかってきます。
もし今あなたがそういったギャップに苦しんでいるのなら、目に見える現実だけがすべてではない、ということをわかっていながら、この世的な価値観はゲームのルールだと割り切って学んでいく必要があるでしょう。ルールはこの目に見える世界(合意的現実の世界)を維持していく上ではとても大切なものです。それに従うのか、反抗するのかはどちらでもいいのですが、従うにしても反抗するにしても、それはゲームのルールなのだとわかった上でできるだけ意識的にすることが大切です。
そうしていくうちに、このゲームの世界の中の一つの駒である「小さな自分」の感覚がしっかりしてくると、その小さな自分を離れて見るもう一つ上の視点が育つ可能性が生まれてきます。その小さな自分を通して大きな自分を表現できるようになってくるのです。大きな自分(目覚めた意識、内なる神、仏性、ワンネス、、、)がこの世界に流れ出す出口の役割を果たせるようになってきます。
もう少し別の表現をすれば、すべては私だとわかりながら仮の他者と関わること、
私がやっているのではないとわかりながら私として世界に関わること、そんな感覚でしょうか。
私と同じような目覚めのプロセスを体験している方がおられたら、それはおかしなことではなくて、今まさに必要なプロセスを体験しているのだ、ということをお伝えしたいと思います。今体験していることはすべて、目覚めへと、今ここへと向かっている貴重なプロセスの一部なのです。
(この「なーんだそうだったの?~実践ガイド」はさらに続く予定ですが、最近はあまりカテゴリーを意識せずに書いているので、このブログ内の他の文章も読んでみて下さい。)
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